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2017年10月07日

「老馬の智、用うべきなり」

こんな話がある・・。
中国史上、最高の宰相と言えば管仲、斉の国に仕えた人物である。
春秋戦国時代の話、連日の戦いで死にもの狂いで逃げる途中で道に迷う。
その時、管仲が発した言葉がこれである。
老いた馬は賢いのでその馬に道を探させよ!と命をだしたのである。
人の役に立たなくなりつつある老馬を上手く活かして用いるという発想が
流石に管仲である。紀元前の宰相の格言は未だ錆びずに生きている。
言わずもがな。管仲とはこの格言の主。。
「実つれば、すなわち礼節を知り、
衣食足りれば、すなわち栄辱を知る」

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2016年10月22日

寿ければ

寂聴氏の「死刑制度」に関する発言が物議を醸している。
確かに、これは、偏した中庸を欠く問題発言である。
「人を殺したがる・・・馬鹿ども!」と死刑廃止論を唱えたが、
この発言には被害者の身内が怒っている。いや、被害者でなくとも。
一言で氏は、子供より自己を優先した自己愛の強い人物と言える。
その実は、本人が万言を費やしても自己愛の域から出る事はなく、
又、その自愛の人に、慈愛なり博愛精神は宿るべく無く矛盾が多い。
僧侶の姿を借りての説法等も「恥ずべく偽善」とする人も多いのだ。
哀しいかな、「寿ければ、辱多し」である。
時過ぎて「耄耋の境に在り・・忘を病める・」老者の発言かとも。

改めて「法」の本質とは「信賞必罰」にあり!と認識する。
「刑法」の中の死刑制度は何も善人を罰するものではない。
極悪人を罰する事、悪事を未然に防ぐという両輪を持つものである。
仮に、情性を頼りに罰を加えず、守るだけなら「法」とは言わない。
「法」を守備本能の世界に置けば治安は乱れ安全な暮らしを失うのみ。
「法」とは裏側に手段としての攻撃本能の支えを持つものである。
「法」を守った者は必ず賞し、「法」を破った者は必ず罰する。
故に、法務大臣は役目としての仕事を粛々と断行する事にある、と。

そして、枢言に曰く・・・。
正統な刑罰は暴虐ではない。
正当な褒賞も浪費ではない。
「信賞必罰こそ、最高の徳である」と。

2016年01月07日

十二支「申」の意味

古代に生まれた十二支とか干支は誰もが知る事として、しかし、その意味合いを深く解す

ると言う事ことなく、唯、古くからの慣習として今もなお存在感をもって生き続けている。

本来、十二支とは時間を現す符号であり、眼に見えない「無の世界」を示すものである。

それに対して空間を現す十干という符号は「有の世界」である。つまり、空間の存在物の

変化によって、はじめて見えるのが時間であって、時間そのものは完全な「無」である。

一日の変化も人間の成長と老化も空間現象であり、そこに時間を想像することが出来る。

其処で得た答えは「時間とは動くものなのだ」という事であり、古代東洋人は暦の作成

において時間と空間を別次元で捉えていたという事に大きな価値を見いだせるのである。

宇宙には「時間」と「空間」の世界があり、この二つの世界が常に一体となり動くのだと

いう観念に至ったわけである。自然界の分析方法は今日に至るまで日本には存在しないが

空間というものの捉え方を言えば、仏教の「無」、儒教の「虚」、道教の「空」、等との考え

方はなく、其処に存在しているもの全てを空間として捉えているところに見事さがある。

つまり、空間とは、空間から時間を引いた全てをいう。過去も現在も森羅万象全てを言う。

「空間とは有なり」「時間とは無なり」の思考で、歴術作成に際して「空間と時間」二つを

合わせて使用する事に異議を見出したと言う事である。

さて、干支陰陽暦とは十干という空間現象と十二支の時間の合体であり、世界の暦の中で

空間が加味された暦は唯一これだけなのである。其処に、現在使用されている西洋の時間

暦である太陽暦との大きな違いがあり時間思考と時間空間思考の違いとなって現れている。
つまり、干支暦は太陽暦と違い毎年毎年の意味合いを所有する暦なのだと言う事である。

干支というのは、人間を自然界の中で考えて行く符号なのである。

そして、この干支が其々の国なり、個人なりの生年月日と結びつき符号から意味合いを読

み取る事が出来るとしたのである。因みにそれぞれの国の生年月日は憲法制定日である。

今年は西暦2016年の丙申年。「丙」は空間現象・「申」は時間現象という事になり、

意味するところは北半球全体に「丙」という明暖の空間が広がりを見せ「申」という攻撃

本能を所有する時間帯に入るという事になる。つまり、「丙」は南方の伝達本能が位置する

場所という事から、人々の言論が躊躇なく迷いない状態で活発になり、自然界も人間界も

攻撃本能が極まる状態で激しくなる姿が想像出来るという事にもなりましょうか。

この状態が北半球を多い個人の生年月日の符号と絡めて干支の読み取りをすることになる。

しかし、運命とは相対的なものである。又、人間は環境によって本体を変化させるもので

ある。故に、干支には必ず環境を加算して読み込む事を基本としているのである。

2015年09月23日

古代科学・陰陽論

古代東洋史を突き詰めていけば、その思考法に大きな特徴を視る事が出来る。
古代東洋では常に無限を想定しての思考法が主流を成していて、物事の有限思考は見られず、大宇宙を視野に無限に広がる思考法は行き止る事のない思考法となる。

其処に陰と陽の考え方が出現する。

つまり、無限の出発は陰と陽、二つの元素の存在により成りたち、陰なり陽なり片方だけでは無限を構成する事は出来ないと言うものである。

また、無限思考の裏付けとして、古代中国を発祥とするものに「囲碁」がある。

囲碁は、碁盤上にマクロ宇宙を想定し陰陽論・平面五行・立体五行、段差五行と発想の根底に、無限思考を具現した人間学であり、思考ゲームである。

更に驚くことに、人間世界の「次元」に及ぶ思考を作り上げている見事さがある。

古代インド・中国に無限を現した多くの言葉が残されているのも頷ける話である。

例えて、「永遠」「遼遠」「劫」「盤石劫」「芥子劫」等、何れも無限への表現の多彩にある。
加えて意味深長であり、東洋史を語るに陰陽を抜きには論じられない。

さて、陰陽論の発想の原点は本来、天体から来たものであり、一日間の昼と夜が陰と陽の出発点、また、判定基準となったのである。

陽=太陽=明=昼・一日の始まりで先行とする。
陰=太陰=暗=夜・一日の終わりで後行とする。

陰陽説の定義は、一極を定め対座する異なった世界を二分(陰陽)することにある。

つまり、一極二元は、一つの事象が陰の部分、陽の部分、全体の部分の三分類となる。

これが「一極二元の法則」であり、相乗からは、異なった二つの世界に共通項さえあれば、陰と陽の無限の広がりを作り得る思考法となるのである。

しかし、この「一極二元論」は漢方医学等の病気の判定に使用される「一元陰陽論」との解釈の違いをもって大きく区別されており、算命学思想との異なりの一つとしている。

宇宙は天と地である。 人間は男と女である。 一日は昼と夜である。 等々。

森羅万象、全てが陰と陽の「気」で構成され「気」は陰と陽を持って無限を作り得る・・。

此の思考こそが、古代人の叡智が捉えた最初の科学であったということである。

2015年07月03日

「老馬の知、用うべきなり」

生活苦に絡む事件が此処に来て急に増えたとの感はあったが、

昨日の国の統計から若年層の(62・4%)の人達が生活苦を

感じているという結果には驚愕。

「流れ老人」との老人を揶揄する新語が出た後での、この現実は

当に貧富の差の拡大を意味するものであり、他人ごとではなく、

不安定社会を物語る現実であると感じる。経済は生き物である。

古今の有能なエコノミストの論理は「有効需要」と称するもので

消費と投資の配分、しかし、いかに計算し尽くされた形を持ってしても

人間が作る社会が自然界の法則の範疇にある限り、人為は一時的な

勝利に過ぎないのである。また、「貧富」とは、文明なり進化した

社会の属物であると考えるのが正解というものではないのか、と。

なぜなら、太古の社会、つまり「貧富」が同居しない共同体からは

一番高貴な習慣が生まれているのである。そこには傲慢も不正も

さらには羨望も我欲も生まれなかった。また、人間が単純であったから

人間も善人であった。

さて、現代の状況改善には「轍鮒(てっぷ)の急」を要す。古を師として、彼の紀元前、政治家「管仲」の発した言「老馬(ろうば)の知、用(もち)うべきなり」である。

つまり、伏して、老練な知恵者の言を道案内として舵取りをするにある、と。

*「老馬」戦いで追われ山道に迷い困った時に、「老馬に先導させよ!」との
管仲の指示あり生還。年老いた馬はよく道を知っているから迷わないという故事。

2014年12月05日

百事の禍福

其の六:「聴は事の兆候」と言うも、最早「鼎の軽重」を問われるまでの国に・・。
何とも哀れな平和ボケも甚だしいニュースには驚くばかり・・である。
本年の流行語大賞に上がった「集団的自衛権」の話である。
今や国家権力の暴走により「憲法」という最強の鎖が解けようする時に、
この暴挙。「禍福はあざなえる縄の如し」とは言うけれども、
「病、膏肓に入り」の状態では、既に治すべく方法も見つからず、
もはや「自然の法則」に従うより道なしの心境で、唯唯、眺めているのみ。

2014年10月26日

百事の禍

其の五:「国には国の格、民族には民族の格がある。人に人の格が有るのと同じである。
そればかりか、物にもそれぞれに格がある。格は尊貴なもので、全ての格を総合するものが人格である」と言われるが、近年、政治家の人格には問題が多すぎるのではないか、と。
古の政治家「管仲」は「天下を得るには、先ず人を得る」との言を残したが、古を「師」とし「管仲」を崇拝した毛沢東も同じくいっている。「準備なくして行動なし」と。
政治家のトップたるや人を選ぶ資質を持つ事、然るべきであり、閣僚たるや「人格」「実績」能力」の三条件を備えているのは当然の事とする。この基本がぐらつけば国は危ない。
唯唯、「野心は大きいが知恵が足りない!」ことほど然様の政治集団、何をか況やである。
此れこそ、百事の禍のもとである。

2014年03月23日

轍鮒の急

荘子列伝の中にこういう話がある。荘子は宋の国の人です。常に大国に脅かされ苦難にあえいでいた時代、その悲惨さは推して知るべしで、荘子の貧窮も酷いものであった。継ぎはぎだらけの衣服をまとい食糧に困り果て、ある時、粟を借りに監河候の所へ出向いた・・。

監河候:どうしたのです!そんなに痩せこけて。

荘子:貧乏なのです!病気ではありません。士たるものが道徳を身に付けながら、実現できないでいる。時運にめぐりあわないということです。助けて下さい。

監河候:よかろう、しかし、しばらく待て。領地の百姓どもから税金をとりたて、その中の三百金をかしてやろうではないか。

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2013年05月31日

「口は心の門」なり

公人の立場を持つ人達は「口は心の門」の心得をもって発言すべきである。

発言については、主張すべきところは主張し、

沈黙すべきところは沈黙する。

これが公人としての嗜みではないか、と。君子を愛好すべきではないか、と。

・・・問われもせぬのにしゃべる、これをオシャベリという。

・・・一を問われて二まで答える、これをオセッカイという。

どちらもよくない。

古人の知恵を取り入れて欲しいものである。

古い諺に「駟も舌に及ばず」というのがある。

口から出た言葉は四頭立て馬車の早さをもってしても追いつかない、という

ことらしいが、・・・・昔の四頭立ての馬車は早かったのだ。

2012年12月17日

海翁、鴎を好む(本日の寓話)

「海上の人にカモメ鳥を好む者有り。」ではじまる列子出典の話。
<内容>
海のほとりに長年住んでいる人間で、カモメの好きな少年がいた。

毎朝かならず海のほとりに行ってカモメと遊んでいた。

カモメは数百羽、いやそれ以上も、彼の回りにむらがっていた。

ある日、その父が言った。

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2012年11月20日

烏孫公主

風蕭々と・・秋深まり、草木が黄ばみ落ち、秋はしばしば悲しみの季節と感じ

られる。11月の暗い野原に出ればその昔、「秋風泣女の相」と言われる女が、

今にも泣き出しそうな顔をして話しかけてくる、そうな。そんな話も真実味を

帯びてくるから、・・不思議である。

漢の武帝の時代、圧迫政策の犠牲になった烏孫公主の話である。結婚の本は

政略結婚というのは勿論の事である。武帝の甥江都王健の娘として生まれた公

主ではあるが、父の不品行を武帝に咎められ父親の健は自殺している。その

後、公主は武帝の命で烏孫王昆莫の妻となったのである。匈奴と対抗する為、

烏孫王との同盟を必要とした勿論政略結婚であった。遊牧民族の国へ嫁いだ

のも公主が最初の一人である。その上、烏孫王は年老いており言語も通じず、

会うのも年に一回二回対面するだけということで淋しさのあまり、この歌を作

ったとされている。高度文明と洗練された生活を送っていた当時の中国人にと

っては遊牧民の非文明的な暮らしは耐えがたかったに違いない。ましてや貴族

の女性である。この時の公主の苦悩がいかばかりであったか、その「非愁歌」

がいっそう愁い悲しみを語っている。

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2012年10月10日

張家界の山水

中国は広い!
「張家界」の絶景が三十年前に発見されたという事には驚きであるが、その見

事な映像を見る機会に恵まれて、名前の由来を思い起こす事となった。

その昔、秦の始皇帝暗殺に失敗し、その後、漢の高祖劉邦の知恵袋として活躍

した張良が晩年、仙人生活を求め移り住んだところから張家界(ちょうかかい)

の名が記されたという事である。実は張良は「仙人」を実際に試した最初の人

物ではないかとも言われている。

さて、仙人とは?

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2012年08月23日

「睚眦の怨みにも必ず報ゆ」

嘗ては、栄える隣国・唐の都へと憧れ国を挙げての文明・文化の吸収を急いだ歴史があった。

隣国は確かに深い井戸であり、短い釣瓶(つるべ)ではとても汲みきれない程。

歴史の国は、諸氏百家・九流の術士を生んだ老成した人間学の国である。

その学ぶべきものは多く、現に、この国の年号までもが古代中国との繋がりを持っている。

昭和・平成の年号は古代中国の「書経」の中から取り入れられているのである。

「百姓昭明にして、万邦を共和す」このくだりから「昭和」の年号がとられた。

「地平らかに天成り、六府三事允に治まり、万世永く頼るは、これ汝の功なり」

この言葉から「平成」の年号が採用されている。

歴史の国とはいうものの正確な歴史記録はあるのか??

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2012年08月18日

「助長」

「助ケテ長ゼシムルコト勿レ」の「助長」は孟子に出てくる故事であるが、この話には、時代を超えて何方の心にも、心温まるものを残すようである。

・・・宋の国の愚かな農夫が早く苗を成長させようとして、一本一本の苗を引っ張り上げ、とうとう枯らしてしまったという・・話。

ところで、この「愚かな男が・・」という書き出しで始まる故事成句には必ずと言ってよいほど「宋の国」「宋人」が出てくるが、それにはちょっとしたエピソードが隠されている。実は「宋の国」とは、

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2012年08月04日

守株待兎

宋人(そうひと)に田を耕す者あり・・。ではじまる(守株)という成句。

北原白秋作詞の「待ちぼうけ」という童謡を聞いて思い出した。

話はこうである。

中国春秋戦国時代、宋という小さな国の農夫が畑仕事をしていた。

ある日、兎が走ってきて切り株にぶつかり首を折って死んだ。

それを見て農夫は、また同じことが起こるものと思って仕事もせずに

毎日切り株を見守っていた。

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2012年08月02日

「富には限界があるか?」

水の限界は水のなくなるところ

富の限界はそれに満足するところにある。

しかし、人間は満足することを知らず

ついには身を滅ぼしてしまいます。

昔、斉の国の桓公が宰相の管仲に

「富には限界があるのか?」

と、尋ねたところの答えである。

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2012年06月30日

「二桃三氏を滅す」

何時の時代にあっても、簡単に身を滅ぼす人物は多い。

また、身を滅ぼす原因も様々である。

家を滅ぼしてしまうかどうか、わが身を滅ぼしてしまうかどうかは

ひとえに気持ちを引き締めて生きるかどうかにかかっている。

常に自己練磨・事上練磨の心がけで、慎重に対処すれば

誰でも成果が上がるはずを、気持ちがだらけていて手を抜けば、

あらゆることが失敗に終わる。

身を滅ぼした連中はみなこれが原因となっているようだ。

どの時代であっても、何処にあっても「油断禁物!」心されよ!!

さて、此処に奇計で豪傑を自滅させたという面白い話がある。

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2012年05月17日

宥座の器

歴史の長い国は人間学の知恵の宝庫でもある。

それは、ちょうど「若」と「老」の関係のようでもある。

人間性を重要視せずには成り立たなかった国での偉大なる知恵であると思う。

さて、人の目に不思議を与える「宥座の器」にも奥深い教えがある。

この器は空の時は傾き、中位で正しくなり、一杯になると覆るのだそうだ。

そこで、紀元前にこんな話があった。

孔子が弟子の子路とある屋敷に行った折、玄関に倒れたままの器が飾ってあった。

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2012年05月06日

時代に潜む死生観の無念!!

驚きであるが、六十の女性の死は「魅」というらしい。魑魅魍魎のたぐいか?

「左伝」という古典に良く知られている「魑魅魍魎」という四字句がある。

「魑魅」とは「山林の異気より生ずる怪物で人間を害するもの」だという。

また、「魍魎」とは「山水木石の精気が凝ってなる須玉。そのかたちは三歳の小児に似、

赤黒色で赤い目と長い耳と美しい髪をもち、人の声を真似て人をたぶらかす」とある。

つまり、善良の人間をたぶらかす妖怪変化の類を総称して「魑魅魍魎」というらしい。

また、「菜根譚」の中には「徳は才の主、才は徳の奴隷なり、才ありて徳なきは、家に主なくして、事を用うるが如し」とある。


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2012年03月31日

縦横学と囲碁の関係

 諸子百家の主要九流の中に「縦横家」は入っているが「兵家」は入っていない。孫子の兵法であまりのも有名であり、戦略学の永遠のベストセラーとまで言われているにもかかわらず何故なのか。孫子の兵法の「戦略」に対して縦横学では「軍略」という考え方を持ち、「戦略」は軍隊の進退を論じるのに対して「軍略」は国家の進退を論じ、「戦略」が戦いに勝つための方法論に対して「軍略」には根底に組織の「経済思考」が入る。つまり「戦略」は「軍略」の一部分であり、中間管理者のためのもので組織のトップにとって「戦略」よりも「軍略」が重要で「軍略」は組織トップの予測・対処・準備の学問である。

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2012年03月29日

愚公、山を移す

中国古典思想の『列子』の中に「愚公、山を移す」とういう古代の寓話があります。これを毛沢東が1945年の中国共産党第七回全国代表大会で行なった閉会の辞の中で引用し、一層知られるようになった話です。
『愚公(ぐこう)<おろか者>の家の前に二つの大山があり、どこへ行くにも不便でしかたがない。そこで愚公は家族と協力して、石を割り土を掘り、山をきりくずし、その土砂を海に捨てに行った。そして一往復するのに半年かかった。知叟(ちそう)<りこう者>が「愚公さん、あんたも、もう年老い先が短いのに」とそのバカらしさを笑うと、愚公は答えた。「おまえもずいぶん分からず屋だな。私が死んでも子供がいる。子供が孫を生む。孫がまた子供を生む。子供にまた子供が出来る。その子供に孫が出来る。こうして子孫代々受け継いで絶えることがない。だが、山は今以上高くならない。平に出来ないことがあるものか」天帝がこれを聞いて感動し、二つの山を移動させたという話である。』

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2012年03月19日

「言わずもがなの九言」

その一、
礼節のない人とは、付き合いにくい!「礼は下々に降さず」とは古言として。
やはり最低の礼儀は必要ではないかと。伝達・コミュニケーションを取る時の「手段」ですから、これを身に着けていれば能力に多少欠けがあったとしても人間関係で生かされるというもの。
「量り」というものが「物の基準」だとすれば「礼」というのは「節度の基準」と認識している。

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2012年02月28日

隋(まにまに)に「華氏(かし)の健忘症」

宋(そう)の陽(よう)里(り)の華氏(かし)、中年にして忘(ぼう)を病(や)める。

朝(あした)にとり夕(ゆうべ)に忘れ、夕(ゆうべ)に与えて朝(あした)に忘れる。

塗(みち)に在っては、則(すなわち)ち行くことを忘れ、

室に在っては、則(すなわち)ち座することを忘れる。

今は、先をしらず、後には今をしらずとある。

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2012年02月07日

「美人に美服」〜最も矛盾の無い生き方〜

幸運・不運を嘆く人は多いが、その原因は
実は
自分自身の「心」にあるのだとしても、
人によっては、
なかなか通じにくいものである。

天命による不幸よりも、人間がやることと心構えの
食違いによって
運命を崩していく場合がいかに多いかである。
運命こそ、人間の「心の矛盾」にその出発点があるのだ!
・・ということを念頭に置いて、
運命的常識を身に着けていけばよいのである・・。

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2011年10月05日

官に居るに二語あり

「官に居るに二語あり」
「公平であれば明朗が生まれ、清廉であれば威厳が生じてくる」と。

今の世の中、公平・清廉であるのは難しい事かもしれないが、官職にある人物こそ心がけて欲しいものである。隣の国の「周恩来」の清廉な生き方も素晴らしかったが、紀元前の人物であるが、子罕(しかん)という宋の平公に仕えた名臣に、素晴らしい話がある。

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2011年09月14日

呉子はいわれた!

「人はつねに自己の能力を超えた事態に遭遇して倒れ、自由にならない状況に
出会って敗れる。」
したがって、重大な人選には心して人材を選び、適材適所に配置する事が肝心である。
・・・武侯は尋ねた。
「もし敵が大軍で、味方が少ない場合には、どうすればよいか?」
呉子はこたえた。
「そういう場合には、平坦な土地では戦いを避け、狭く険しい地形の所に誘いこむのがよいでしょう。だからこそ、「一の兵力で十の敵を討つには狭い土地であたるのが最善であり、十の兵力で百の敵に当たるのは、険しい地形の土地で戦うのが最善、千の兵力で万の敵にあたるのは、障害の多い土地で戦うのが最善だ」といわれるのです。

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2011年07月19日

方向を間違えた努力は自我である

・・・こんな話がある。
昔、ある男が北へ向かってひたすら馬を走らせていた・・。
それを見た人物が、「そんなに急いで何処へ行くのだ」と尋ねたところ、
男は「楚の国へ行く」という。
「楚の国は南にある、方向が逆ではないか?」と、聞くと
「馬は飛びっ切り上等だ!」と答える。
「良いかもしれないが、道を間違えている」と、重ねて注意すると
「旅費もたっぷりある。」と言う。
「そうかもしれないが、道を間違えている」と重ねて注意したところ、
「いい御者がついている」と答えたという話である。

こういう人物を時々、見かけませんか?

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2010年09月04日

清濁併せ持つ気質が政治家であるはず・・

連日のテレビを賑わす政治論でありますが、何か的を外れた議論に感じる。
社会が複雑な仕組みになると人間は単純化するという。多くの人が「政治と金」を問題の第一に挙げますが、必要悪の枠は残しておかないと、政治が成り立たないのでは?
何故なら、この世は現実であり、現実の最たるものがお金である。人は利益の為にのみ動く・・どうしても成さねば成らない時の切り札がお金なのである、と言うことも視野に入れて政治家を選びたいものである。クリーンな政治家が、どうして良い政治ができるのか。
そもそも、政治家の役目は何か?国を纏めるとはどういうことか?どのような大事であるか?ということすら、明確に意識している政治家はいないように感じる。
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2007年04月24日

中国史観

『愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ』

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