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寿ければ

寂聴氏の「死刑制度」に関する発言が物議を醸している。
確かに、これは、偏した中庸を欠く問題発言である。
「人を殺したがる・・・馬鹿ども!」と死刑廃止論を唱えたが、
この発言には被害者の身内が怒っている。いや、被害者でなくとも。
一言で氏は、子供より自己を優先した自己愛の強い人物と言える。
その実は、本人が万言を費やしても自己愛の域から出る事はなく、
又、その自愛の人に、慈愛なり博愛精神は宿るべく無く矛盾が多い。
僧侶の姿を借りての説法等も「恥ずべく偽善」とする人も多いのだ。
哀しいかな、「寿ければ、辱多し」である。
時過ぎて「耄耋の境に在り・・忘を病める・」老者の発言かとも。

改めて「法」の本質とは「信賞必罰」にあり!と認識する。
「刑法」の中の死刑制度は何も善人を罰するものではない。
極悪人を罰する事、悪事を未然に防ぐという両輪を持つものである。
仮に、情性を頼りに罰を加えず、守るだけなら「法」とは言わない。
「法」を守備本能の世界に置けば治安は乱れ安全な暮らしを失うのみ。
「法」とは裏側に手段としての攻撃本能の支えを持つものである。
「法」を守った者は必ず賞し、「法」を破った者は必ず罰する。
故に、法務大臣は役目としての仕事を粛々と断行する事にある、と。

そして、枢言に曰く・・・。
正統な刑罰は暴虐ではない。
正当な褒賞も浪費ではない。
「信賞必罰こそ、最高の徳である」と。