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驚天動地の発言だ!

「一億総活躍時代」とは、当に驚天動地の発言である。

なんと!戦前のスローガンを思い起こす言辞にもあるやの、似て非なるものか。

レジタルリテラシーの欠如なのか、配慮の欠けか、唯唯、無知ゆえの言辞に過ぎないか。

果て又、合理主義が生み出した、そこから生まれた「機心」の心であろうとも思うが・・。

残念な事に、人間の想像力とは、なんと未熟なものであろうか?

人間とは、それ程に、心も身体も元気で頑健であろうものなのか?

「今の老人は元気なのだから定年なんぞいらない、云々。」という中央政治家がいる。

「遼東の豕」と言うべきか「斗升の人」と言うべきかの・・政治家の弁は多いが、

それは、全くにして間違いと言うもので、本人の思考の視野の狭さに他ならない。

近代に進んだのは社会システムと機器システムの進化のみであり、思考システムは人間の

思い上がりであり、その弊害は大きく機械化された心をつくり、つまり「機心」を作った

に過ぎない。結果、アナログである心をモノに変え「心を病む人間」の如何に多い事か・・。

人間は進化の体を全くなしていない。しかも一部は退化するまま、その形は幼稚化である。

特に「心」は年と共に劣化が早い。ユダヤの諺を持ってすれば、

若さには、お金が必要である、と。老いるには知恵が必要である、と。

そして、現実重視の人間には見落としがちな点であるが、年と共に精神の消耗は精神の

融合度合によって圧迫され壊されているのが現状である。

昔から、七十歳まで生きるのが稀なものであったところから、「古来稀まれなり」との

句が出来た。さらに、寿居耄耋(じゅきょぼうてい)八十、九十、の年になった老人との

表現であり、特に高寿でめでたいとか・・。又、古代では人の寿を上・中・下に分け、

百歳は上寿、八十歳は中寿、六十歳は下寿なり、と。

確かに昔は食べ物にしても貧寒なものであり、老人は外見も痛々しく疲れて見えたものだ。

しかし、現代人も還暦を過ぎた頃には、心身のバランスが崩れ、それは苦しいモノである。

古言に「年寄りとは伏して起きるが仕事です!」という逸話もある程に、還暦後の肉体は、

想像できない程に疲れている! 殆どの人は心身の病気であると言っても過言ではない筈。

合理と機械が生んだ「機心」から、社会の進歩と同じく肉体と心の進歩があると考えるな

らば、短慮の程、この上もないといと言う事である。又、この思考が広く至れば、必ずや

効率を視野に、いずれ老人の未来は[タンパク質]と化すであろう・・・・と。

若い肉体と「機心」を持つ者は「一億総活躍時代」等の言葉で人生に疲れた老人を揶揄

してはいけない。今も昔も心年令と肉体年齢がある。「肉体に進化はありません!」という事。

そして、心とは進化により病むのが常であり、個人の心次元にもよるが疲弊していくのだ。

いみじくも、彼の詩人の残した言葉が巧く表している。「体は心の入れ物である」と。

「人間五十年」が一般的な寿命とされた時代から、既に長い年月が経ち今や寿居耄耋が常

老人は静かに余生を送り、活躍しない生き方に社会システムを作りかえて行くべきだ。

命の定義は、死と生をもって命。老人は誰しも命の終わりを学ぶ必要がある。

「生生死死の命」である。そこで、思い出すのが戦国時代の信長の死である。

桶狭間の突風的出陣を前にして死を決意した信長は、覚悟を持って平の敦盛の一節を歌い

且つ舞ったと言う事である。ここにも、死を前に見事な覚悟と見習うべき姿がある。

「人間五十年、下天のうちを比ぶれば、夢、幻のごときなり。ひとたび生を受け滅せぬもののあるべきか・・。」