デモクラシーと独裁は矛盾せず。
現状を理解できない時は、昔の事から推察するのがよいと言う。
未来を予測できない時には過去をふりかえってみるがよいと言う。
すべてものごとは、現れ方は異なっているようでも、
古今を通じて、その法則性は同一である・・・と言う。
世の中の移り変わりは「有為(うい)転変(てんぺん)」「滄(そう)桑(そう)の変」。特に近年、近代デモクラシーが生息し得る必要条件、議会政治が巧く機能しているとは、とても思えない現状にある。
討論こそ議会政治のエッセンス。しかし、それを眼にする事すら既に無く、矢継ぎ早に
知らされる法改正・法案には、唯々、唖然とするばかりか、恐怖を持たずにはいられない。
デモクラシーとは人間だけで行う政治の事であり、「デモ」は「人」と意味するところから、
人が関わる政治は共和制にしろ、貴族政にしろ、全てデモクラシーである。
では、デモクラシーの反対とは?「軍国主義」か。否、デモクラシーの反対は「神聖(しんせい)政治」
のシオクラシーである。とは、「巨儒」小室直樹氏の言辞。
又、平和主義のデモクラシーもあれば、軍国主義のデモクラシーもある。
過去のスパルタ国などは典型的な軍国主義のデモクラシーであった。
自由主義と民主主義が一組になった、近代デモクラシー国家においては、主権者が国民
であり「絶対者」である。権力への住民参加においては監視の目を疎かには出来ない。
国民の代表たる議会がありデモクラシー国家の国民は名君にも暴君にもなり得るのだ。
アジア・アフリカ等でいろんな国が宗主国から独立し、宗主国に倣い憲法を持つが、
立派な自由主義や民主主義が盛り込まれても敢え無く機能不全に陥り独裁者が牛耳って
しまうのが何よりの証拠ではないか。デモクラシーとは健全に育んで行かなければ簡単に
独裁者を作り得る土壌となるのである。周知の如く、古代ギリシャにおける政治思想の
影響は大きく、デモクラシーという言葉は「暴民政治」という意味でもあったのだ。
デモクラシー、リベラリズムによる政治は非常に生かし方が難しいと言われる所以である。
国民が目を離した隙に独裁化してしまう事を知るべきである。最も良い例がドイツ国。
当時、憲法の手本とされたワイマール憲法には触れることなく、国民投票を繰り返し、
経済政策による超インフレを解消、国民の喝采を浴びながら独裁者が出来上がった。
たった一つの、その法案こそ、未だ記憶に新しい恐怖の「全権委任法」である。
デモクラシーと独裁は矛盾しない。舵取りを間違えば「僧兵世乱す」である。
歴史は繰り返すが、一定の周期がある。そして、今こそ「危急存亡の秋(とき)」である。