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教育」と「教養」の違い

縦横学とは、以って、字の如く縦と横の関係から物事を解釈する学問である。
社会・組織・宗教・国・人間関係等々、全てに於いては縦軸と横軸から成ると
する考え方である。
そして、その交点に人間はバランスを持って生きているとする考え方である。
また、その思考法は論理的に説明し得る手段としては最も簡単で理解し易い。
それは織物の如くであり、縦糸と横糸で丁寧に編み込まれた思考法なのである。
近年に視る「知に驕る無知」は多いが、理や知はたかだか相対的なものにすぎない。
理知を絶対化する事は「愚か」と言うものではあるまいか、と。
   縦=精神性・男性・父親・家庭=教養・道徳心
       
 男性は精神・家庭にあって精神性を授ける・道徳

女性は現実・家庭にあって現実性を授ける・常識
横=現実性・女性・母親・国・学校=教育・常識
「教育」と「教養」の違いを縦横学で説明すると上記のようになるが、教養は縦線・教育は横線からなり「教育」があっても「教養」とは無関係である事が判る。知に立つ弁は人の弁舌に勝つ事は出来ても人を心服させるには至らない。「才ある小人」というのである。つまり仕事は出来るが人格なしという事である。実に教養とは家庭が授けるものであり、特に両親の役目の中では父親の精神に宿るものから家庭にあって自然に身に付くものであり、父親の「心」がその根源を成すと言える。又、母親はその家庭においての精神(心)の具現化の役目を持ち、それが常識という形で礼義なり行動なりにと躾として子供に宿すものである。ここに父親と母親の役割の存在価値の大なるものがあり、縦線と横線の意味する所がある。安易な結婚の結果は、この大切な「道徳」と「常識」の欠如として社会に具現されていく。つまり、無秩序な社会を作る要因となるのである。「国の乱れは家庭から」との謂れもここに淵源する。近年においてよく耳にする言葉に「教育を積んでも教養のない人間が多い」と言われる所以も、家庭の在り方に起因しており当にこれを言うのである。
はて、杞憂するのは、無秩序を正す手段として、この法則を知らないまま「知に驕る愚者」一国の権力が縦線・精神の「道徳」を横線・現実の学校教育に取り入れるという動きになるという危険。それは、即、国家中心の思想統一の教育に繋がるという事にある。僅かに70年前の記憶を辿れば・・・。「道徳精神」を集団で行う考えこそ、あってはならない事であり、この先そのような思想に及べば「ご短慮、この上もありません」と言う事になる。