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ノーベル賞受賞者・中村修二氏

国には国の「格」、民族には民族の「格」が有る。人に人の「格」が有るのと同じである。そればかりか、会社にも、物にも「格」がある。「格」は尊貴なもので全ての格を総合するものが「人格」である。また、その人格を重厚にさせるものは礼節に勝るものはない。
この件において、ノーベル賞―受賞者よりも、深く感動を覚えたのは、日亜化学会社の「格」であった。過去の次元の低い争いをもろともせず、淡々と出されたパフェクトな返答には、個人的にノーベル賞を与えたいほどの感動を覚えたのは私だけであろうか。
又、過去において、これ程、尊厳のないノーベル賞受賞者がいたであろうか、と。
そもそも、集団とは何か?組織とは何か?個人とは?と考えた場合、人間を単独で論じる事が出来るのは、心の世界、つまり精神の世界だけである。それに反して人間の行為行動は単独の範囲では不可能であり、常に集団の中に在り集団を意識したものでなければ正確なものにはならないのだ。また集団には同目的を所有する仲間集団と利益を目的とする組織集団があり、同目的を持ち営利を目的にしない集団にあっては、立場、役目上の上下関係はあっても同共同体であり横並びの平等集団である。しかし、組織として営利を目的とすれば、当然のことながら、必ず、役目が生まれ完全な上下関係が生まれるのである。

そこで集団の指導者は「役目」と人間「個人」との一致点を探し「個」を活かす事で「集」を活かす事が出来るというものである。「個」が「集団」を作り、「集団」は「個」を作り出しているので、個を生かすための集でなければならないが、それは会社組織の成熟度にもよるのである。つまり、会社が創成期の時期で動乱の時であるのか、成熟期であるかの問題がある。このことは、指導者の役目の中で最も大切な部分であるといえるのだが・・・・・。
さて、言わずもがな、会社組織にはそれぞれの役割があり、中村氏においては、当時、集団の中に身をおいての研究職という立場上の「役割」の中に対価を受けていたのであるから「集団」が「主」であり、「個人」が「従」であるのは明々白白の事。聞くところによれば、日亜化学という会社は、其の頃まだ会社としての次元は低く、まだまだ、「目的」が「会社の利益」であり、その「手段」が「研究」にあったと聞く。会社の目的が「会社の安定」であったとすれば、会社の「手段」も違っていたはずであるし集団の中でも「個人」がもっと生かされていたに違いない。そこの部分が経営者と同次元にはない、一研究者には理解し難いことであったのではなかろうかと解するのであるが、唯々、残念な過去の事件と言わねばならない。

古代中国の「の器」なる話がある。孔子が弟子の子路とある屋敷を訪れた折、飾り棚に「倒れた器」が飾られていた。
そこで、水を汲んで来て器に水を注ぐと、案の定、中位でまっすぐに立ち、一杯に注ぐと覆り、空になると傾いた・・・と。
孔子がため息をついて言うには、
「ああ、どうして一杯になってひっくりかえらないものがあろうか」と。
子路が言うには、
「満ち足りた状態をらないように維持していける方法はありましょうか?」と。
孔子、答えて曰く。
「聡明聖知ほどの素晴らしい智があれば、これを守るのに表面を愚でおおい、功績が天下に行き渡る時は、定めるに謙譲を持ってし、富力が世界中を占有する場合には、これを守るのに謙遜を持ってする」と。つまり、見苦しい「傲」になるなという事である。

これは人間に対しての「戒めの器」であるが、器にまで知恵をつけた話・・・・。
流石に「老」の国、人間学の国である。それにしても、「覆水盆に返らず」とは、このこと。
「商人は利に聡く、君子は義に聡い」とは、このこと。
「智」の次元は人間の五本能の中の一つの部分次元でしかない。
名誉が上昇すればするほど、全次元の上昇を心がけての信用回復を願いたいものであるが、地元の評判はる悪く、これ程、哀しい受賞者は過去においても存じ上げない。