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座正しからざれば

座正しからざれば、せず。
論語にある「坐の作法」とは別に、「玉座位相」という座の位置、座す場所を定義したものがある。この意味合いは、王朝の主である「帝王たる者は高い位を有する者であるために北方に座し常に南面すべし。臣たるものは王に従うものゆえに北面して南座すべし
とする、四千五百年前の殷の時代に生まれた五行説に方向の意味合いを付したものであり、位と座の区別がはっきりと成されているもので、その根底には東洋史を学ぶには避けて通る事が出来ない陰陽五行説の思考がしっかりと入ったものである。「北面の武士」「君子南面す」等は、
よく耳にする言葉であり知る人は多いと思われるが、しかし、この言葉の真の
意味合いを知るには、やはり五行説の理解が必要不可欠であって、古代研究に
一番欠けている部分が、この陰陽五行説と天と国家、及び皇帝と民との位置関
係なのである。そして、古今の古代研究者の殆どが東洋史を支えているその根
本である陰陽五行説の思考を欠いた解釈での歴史研究に終始している現実は実
に残念な事と言わざるを得ない状態にあり、陰陽五行説を抜いた解釈では到底、
老荘の真の意味合いは掴めないことになる。

例えば、老子の言「のは切っても、のは切るべからず。」の解釈に
に至っても五行説思考での理解が必要であり、通常の老子を読む認識では解釈
困難に陥る。詰る所、孔子が「陽」で老子・荘子が「陰」との理解も難しい事
となるのである。
さて、東洋における皇帝の位置は少なからず南面するように作られていて本丸
を北方に置き、城の正面を南に置いている。この部分は江戸時代から続く千代
田城、つまり現在の皇居に見るそれである。又、「天意」を聞くために王は北に
座し、南天、南臣と王の座を中心に「二つの南」が出来る事は、南臣の座を三
次元に置き天の南は四次元の南とする「虚体格」の発見から理解とするもので
ある。北方を玉座、南方を臣座とする考え方はそこから生まれており、王は南
方の上下に目を動かして「天意」を伝えたとするものである。更に四方向の西
方は上座、東方は陪席する客の座とした。又、別次元では東は後継者の座に当
たり「東宮」という事で、現在も皇室において受け継がれている名称でもある。
ところで、この慣わしは上古の時代より受け継がれるもので、歴史から見ても身分制度のみならず、士大夫以上の身分にある者はその意味と位置を知らずして生き延びる事すら難しい時代だったのである。その代表とも言うべき、古代史上有名な「鴻門の会」の座順がある。秦の始皇帝亡き後、天か取りに直面した劉邦と項羽の話であるが、時は項羽側優勢にあり、項羽側が開いた酒宴の場の座席である。当時の項羽付き宰相である范増が南面して玉座に着き、項羽と項伯が東面して上座につくという形式が整えられていた。当時の沛公(劉邦)は北面して下座が与えられ、張良が西面して陪席(上客)という配置である。この席上で范増が手に持つ玉を三度上げて、「殺せ!」とばかり項羽に合図を送るが、項羽動かず・・。その動きと座の位置に命の危険と悟った劉邦は酒宴の礼を述べるに留まり座さずして見事に逃げきっている。実に用を足すふりをして後を張良に任せたのである。機略に長けた劉邦が命の危機を見逃すはずがなかった。その後の項羽の挑発にも「わしは智では戦うが力の戦いは好まん。」と言わしめたが、後に項羽を四面楚歌に追いつめ漢王朝の高祖となった劉邦こそは、真の知恵者と言われる所以がそこにあったと言えよう。又、その出世ぶりは龍が天に上るが如くであり、又その面長の風貌から「龍顔、麗しき・・」の語源が生まれ、今尚、多くのを引き付けて止まない理由ではないか、と。「玉座位相」は「座の作法」に非ず。