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悲劇の宰相 廣田弘毅

1885年に内閣制度が施行され、初代の内閣総理大臣伊藤博文が誕生して以来、2012年現在で62人の内閣総理大臣が誕生している。その中には延2,886日(7年11か月)在職した桂太郎から、在職54日(2ヶ月足らず)の東久邇宮稔彦王まで在職期間は様々である。しかしながら例え在職期間が2ヶ月であったとしても、これまでに誕生した総理を目指す代議士の総数を考えると、内閣総理大臣になれる確率は大変なものであることが理解出来る。
 人生には努力だけでは果たせないことがあり、中には派閥の代表を長年務め巨額の資産を使い果たしながら、総理大臣になれずに亡くなった政治家が何人も存在しており、一般人には想像も出来ない競争の中で総理大臣が誕生している。そこでこの現実から推測して、これら62名の人には他の人にはないような、人間学的な幸運・強運の要素が存在したものと考え人間学的分析を試みた。その結果、予測通りすべての人に「天が味方をするような幸運・強運の要素がある」ことがわかった。そして唯一の例外として何の要素も持たずに総理大臣になった人物が廣田弘毅であることも…。

戦後67年が経過し、戦争を知らない世代が多い現在では、知らない人がほとんどであると思われるが、太平洋戦争終結後に進駐した連合国軍によりA級戦争犯罪人として逮捕され、文官では唯一死刑になった総理大臣経験者がこの廣田弘毅である。
 廣田は1878年福岡市の石材店の家に生まれ、初名は丈太郎であった。当初は家計に負担をかけないように陸軍士官学校への進学を考えていたが、福岡県立修猷館(しゅうゆうかん)時代に起きた三国干渉に衝撃を受け、外交官を目指すことになった。そして卒業時に『論語』の「士はもって弘毅ならざるべからず」から弘(広い見識)と毅(強い意志力)を採り、弘毅(こうき)に改名した。上京して第一高等学校、東京帝国大学法学部政治学科に学び、ここまではエリートとして順調なスタートであった。しかし学費は玄洋社の某氏が全面的に提供しており、そのことが廣田の人生に大きな影響を与えることになった。
 ところで廣田弘毅の宿命的な人物像は『心の中が分かり難い上に、迷いや戸惑いが生じ他人からは態度や考え方が変わりやすい人に見える。しかし仕事で厚い壁にぶつかっても音を上げることなく、我慢強く果敢に立ち向かう力を持ち、くじけず前進する。また派手な表舞台より裏舞台で生きることに向き、平凡な暮らしに幸せを感じる庶民派の人で、本来は周囲から好かれ幸せな人生になる』という人であった。
 大学卒業後の1905年に外交官試験を受けるが失敗する。英語が苦手であったことが原因と伝えられているが、実は人間学的にこの年は失敗する要素があり、またこの失敗が廣田の人生に大きな影響を与えることになる。つまり翌年外交官試験に首席で合格し、1学年下の吉田茂と同期になるが、これも後の廣田の運命を大きく変えることになる。
 1907年外交官として北京勤務をスタートにロンドン、本庁の課長、ワシントン、本庁の次長、1923年局長に昇進する。その後1927年オランダ公使、1930年ソ連全権特命大使になるが、廣田の大使時代の外交官としての能力や評価は高く、特にオランダやソ連の現地での評価は非常に高かった。そして1933年齋藤内閣で外務大臣、1934年岡田内閣でも外務大臣に就任する。しかし1936年3月二・二六事件後に岡田内閣は総辞職する。
 後任には近衛文麿に組閣の命令が下ったが、近衛は健康を理由に辞退した。実は近衛は自分に近い者が事件に関わっていたことから、事件の処理が困難なため明らかに避けたものであった。その結果外務大臣であった廣田に運命的な指名がかかり、その説得役として吉田茂が派遣された。廣田は拒み続けたが吉田の強い説得に承諾し、吉田により運命を変えられたと言っても過言ではない。
分析の結果、廣田は1936年と1937年は「年運天中殺」であった。総理になるための幸運・強運の要素が全くない廣田が、総理に指名されたのはこの天中殺のお蔭であると同時に、この期間に行ったことが廣田の運命を最悪の状態に、導いた要因にもなるという皮肉な結果となった。つまり1936年総理に就任して二・二六事件の首謀者の将校を処刑するなど大規模な粛軍の実行の見返りに、軍部大臣現役武官制を復活させたことと、1937年近衛内閣の外務大臣の際に、本来の廣田では考えられない日中戦争回避に対する消極的な態度が、東京裁判での戦争犯罪の重要な要因となり、いずれも天中殺の影響であった。
廣田は三菱財閥の令嬢との縁談があったが断り、玄洋社幹部の娘と結婚している。そして総理大臣就任時から、昭和天皇に信頼されていないところが多々あり、昭和天皇は事実、廣田を「玄洋社出身の人物」と述べており、批判的な見解を持っていた。つまり宿命通りに裏舞台で生きていたら、周囲から好かれ幸せな人生になれたものを、総理大臣になったばかりに悲劇の宰相となった。これは人間の「運命」は生まれ付きの「宿命」だけではなく、「環境」により運命が決定付けられることを意味している。
廣田は裁判で他の容疑者が無罪を主張し、責任を他に転嫁したのに対して沈黙を貫き、外国人の弁護士が「このまま黙っていると危ない。あなたの場合は本当のことを話して無罪を主張すれば、少なくても重罪になることはない」と勧めたにもかかわらず沈黙を貫き通した。これは天皇や関係者に累が及ぶことを避けたものとされ、最終弁論では弁護士を通じて「高位の官職にあった期間に起こった事件に対しては、喜んで全責任を負うつもりである」と言っている。事実、死刑執行直前の態度は「東条らと比べ虚飾がなく態度が立派であった」と伝えられている。
ところで廣田の妻は東京裁判が始まる前に自殺している。理由は国粋団体の幹部を親に持つ自分の存在が、夫の裁判に影響を与えると考えたためとされている。近衛文麿が自決したため文官の大物戦犯である廣田は注目され、文官で唯一の死刑判決に衝撃が走った。国民には「戦争を止めようとしていた」という印象の強い廣田の死刑判決に疑問の声が上がり、占領軍の決定に反対運動が皆無の当時に全国から数十万の減刑の署名が集められた。また検察側からもこの判決は意外だとの声があった。実は占領軍では玄洋社は最右翼団体と見なされ、廣田=右翼の先入観があったことが原因と考えられる。そしてこの1948年は廣田にとってまた「年運天中殺」の年であった。