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宥座の器

歴史の長い国は人間学の知恵の宝庫でもある。

それは、ちょうど「若」と「老」の関係のようでもある。

人間性を重要視せずには成り立たなかった国での

「偉大なる知恵」
であると思う。

さて、人の目に不思議を与える「宥座の器」にも奥深い教えがある。

この器は空の時は傾き、中位で正しくなり、一杯になると覆るのだそうだ。

そこで、紀元前にこんな話があった。

孔子が弟子の子路とある屋敷に行った折、玄関に倒れたままの器が飾ってあった。

そこで、水を汲んで来て器に注ぐと案の定、中ぐらいで正しくなり

一杯入れると覆り、空になると傾いた・・・と。

孔子がため息をついて言うには、

「ああ、どうして一杯になってひっくりかえらないものがあろうか」と。

子路が言うには、

「満ち足りた状態を覆らぬように維持していける方法はありましょうか」と。

孔子、答えて曰く

「聡明聖知ほどの素晴らしい智があれば、これを守るのに表面を愚でおおい

功績が天下に行き渡る時は、定めるのに謙譲をもってし、

富力が世界中を占有する場合にはこれを守るのに謙遜をもってする」と。

つまり、見苦しい「傲」になるなということであろうか。

これは、人間に対しての「戒めの器」であるが、器にまで知恵をつけたという話・・。

又、他にも「鼎」という、「器量を問う
器もある。

三本足は人間の欲望を意味するとして、物欲・権力・名誉欲を取り

さらに別の欲を抱けば均等を崩し倒れてしまうという器だが

有名な「鼎の軽重を問う」という格言である。

このように、歴史の国は深い井戸、とても短い釣瓶では汲みきれない。

人間性と智慧が全てであったようだ。如何にして生き残るか?

人の上に立つも、人の下に生きるも自己練磨に余念がなかったようである。

東洋の文化は「老」。

彼の菅仲も道に迷った時「老馬の智、用うべき!」と叱咤したではないか。

現代こそ中庸を保つべく「老の智」を活かすべきではないか・・と。

しかし、近年の識者は「老」の意を知らぬものが多い。