« 人格DNAの意味 | メイン | 宥座の器 »

時代に潜む死生観の無念!!

驚きであるが、六十の女性の死は「魅」というらしい。魑魅魍魎のたぐいか?

「左伝」という古典に良く知られている「魑魅魍魎」という四字句がある。

「魑魅」とは「山林の異気より生ずる怪物で人間を害するもの」だという。

また、「魍魎」とは「山水木石の精気が凝ってなる須玉。そのかたちは三歳の小児に似、

赤黒色で赤い目と長い耳と美しい髪をもち、人の声を真似て人をたぶらかす」とある。

つまり、善良の人間をたぶらかす妖怪変化の類を総称して「魑魅魍魎」というらしい。

また、「菜根譚」の中には「徳は才の主、才は徳の奴隷なり、才ありて徳なきは、家に主なくして、事を用うるが如し」とある。


つまり「徳なき才子たちは魑魅魍魎の類である」と。

実は、この死生観なるものは、汪士鐸(おうしたく1802〜1899)という学者の

1936年に世に出た「乙丙日記」からのもので現代的にとらえると、

酷い「男尊女卑の死生観となるが、時代背景を入れた見方をすれば無念とは、

なし難い、縦横学の思想が根底にあるという驚きがある。

早死にのことを夭折という。(短命と夭折との違いは、夢を持ったまま逝くのが夭折)

男の夭折は五十未満で死ぬこと。

女の夭折は十歳未満の死をいう。

二十歳までの女の死は「正」という。女の正しい死に方である。

男の正しい死に方は五十から六十にかけてである。

三十歳の女の死は「甚」という。はなはだしく生きたということか。

四十代の女の死は「変」という。けだし化け物といいたいのか。

五十代の女の死は「殃」という。「災い」とか「とがめ」と解説している。

そして、六十は「魅」七十は「妖」八十は「怪」となっている。

比べて男は七十の死が「福」、八十の死が「寿」、九十の死を「禅」とする。

そのまま現代人が解釈すると、何たることかと怒りが飛んできそうであるが、

これは、縦型社会・縦線=男性・社会・精神、つまり精神性を重要とした社会

構造が根底にあるので単に男尊女卑としての解釈は成り立たない。

つまり、精神性を重んじた古代社会での読み方と解釈すべきである。

現代は、男女同権から進んで現実主義の女性上位の時代・つまり横型社会で

あるので、これらは当てはまらない。過去の遺物として・・・しかし、どうも

「魅」とか「妖」については考えさせられる自分がいるのはどうしてだろう。

「怪」が寄って来ているような気もしないではないのはどうしてだろう。

心がけて、縦横学の心得がないところでの「訳しには気をつけたいもの。

今は男女ともに七十にして「古希」を祝い、昔は男女とも「古希まれなり」の一生があった。